最高裁判所第三小法廷 平成6年(あ)73号 決定 1997年7月18日
本籍
大阪市天王寺区空清町二番地の二
住居
大阪市天王寺区細工谷二丁目八番一七号
工員
吉本武夫
昭和八年七月二三日生
右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成五年一一月三〇日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立てがあったので、当裁判所は、次のとおり決定する。
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人西垣剛、同桃井弘視の上告趣意は、憲法違反、判例違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 尾崎行信 裁判官 園部逸夫 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫 裁判官 山口繁)
上告趣意書
平成六年(あ)第七三号
罪名 所得税法違反
被告人 吉本武夫
右被告人に対する所得税法違反被告事件に関し、平成五年一一月三〇日大阪高等裁判所刑事第一部が言い渡した判決に対し、弁護人から申立てた上告の理由は左記の通りである。
平成六年四月八日
右被告人弁護人
弁護士 西垣剛
同 桃井弘視
最高裁判所第三小法廷 御中
第一 上告の趣意
原判決は、「株式取引による取引損益の帰属は、その株式取引が何人の取引と見られるかの問題であり、取引の実態から見て何人が取引を実体的、手続的に管理・運用していたと認められるかによるべく、具体的には、売買する株式の銘柄、数量、価格等、取引内容の決定、証券会社への売買の注文、連絡等、取引の手続の執行、証券会社の売買報告書等の計算書類や株券預り証等の管理、取引損益の処置、運用等の諸点を総合して認定すべきであって、取引の原資の提供も右認定要素の一つに過ぎない」として、本件で妻弥生口座、長男博則口座における株式取引の原資には、ある程度、弥生のものが含まれていると認定しながら、右両口座での取引は全て被告人の取引であり、従って、損益も被告人に帰属するとした点が、原判決最大の誤りである。即ち、原判決は所得の帰属について、決して実質をみたものではなく、管理運営という形式のみによって所得の帰属を判断したのである。即ち、第一審判決、第二審判決は、ともに、妻弥生自身の株式取引があると認定したり、「弥生がある程度のまとまった資金を株式に投入したことが認められる」との認定をしておきながら、「その資金の持つ意味合いを重視することが出来ない」とか「弥生が株式取引に投入した資金額を具体的に確定することが出来ない」等々の理由により、すべての取引を被告人一人のみの取引である(従って、その取引から生じた所得は被告人一人のみに帰属する)、と判断している。
右においては弥生、博則口座に入った弥生の原審がどうして被告人の取引となったのかの理由及び法的根拠が全く不明であり、原判決は一切この点を解明していない。これが正に憲法違反(財産権の侵害)であり、実質課税の原則を定めた法律(所得税法一二条)及びそれに関する判例(最判昭三七・六・二九第二小法廷、税資三九・一、昭三九・九・一七、税資四三・三三二)に反する誤りがあり、この誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、到底、破棄を免れないものと思料する。
第二 帰属についての解釈には、前記判例に違反したとの誤りがあること(刑訴法四〇五条二号)。
一 所得税法第一二条で、「資産又は事業から生ずる収益の法律上帰属するとみられる者が単なる名義人であって、その収益を享受せず、その者以外の者がその収益を享受する場合には、その収益は、これを享受する者に帰属するものとして、この法律の規定を適用する。」と規定している。
この規定は、所得の帰属につき名義又は形式とその実質とが異なる場合には、その名義又は形式にかかわらず、これを経済的、実質的に観察して事実上これを享受する者の所得として所得税を課税するという、いわゆる「実質所得者課税の原則」を資産又は事業から生ずる所得の帰属者について明らかにし、従来から法律の趣旨として解釈されてきたところを宣言、確認したものである。
原判決は、弥生、博則名義の口座の管理運営等が被告人によって行われていたから、弥生、博則名義の取引は形式的には右両名の取引であるが、実態は被告人の取引であり、弥生の出した原資の有無もその取引の実態を認定する要素の一つに過ぎないとしている。
ところが、原判決は弥生の出した原資がどうして被告人のものになるのか、何ら法的な理由付けをしていない。弥生が被告人に売買したのか贈与したのか、或は貸付けたとするのか、この点について原判決は何らの判断も示さず、弥生の口座へ入った原資はあるが、そこでの取引は全て被告人のものとするとの強引な結論を下している。これは正に実質所得者課税の原則に反する判断と言わなければならない。所得の帰属を実質的に決める最大の要素は、その所得を生み出す元となった原資を出したのは誰であるかによって決めなければならない。
株式取引への投資者は儲けたいからこそ投資するのである。投資者にとって株式取引に投資した原資が、一体いくらになったかということが最大の関心事であり、株式取引の手続などの管理運営手続などには全く関心がないのが実情である。
従って、株式取引による所得の帰属を決める最重要事実は正にその取引に投資した者(原審を出した者)は誰かによって判断することこそが、判例にいう実質課税の原則に添うことになるのである。
原判決が、被告人が証券会社との手続をやっていたこと、売買株式の決定、証券会社からの売買報告書等の管理を被告人がやっていたから弥生、博則口座の取引による所得は全て被告人に帰属すると認定したのは、実質課税の原則の解釈適用を誤ったものと言わなければならない。弥生、博則口座の取引による所得は形式的にも実質的にも名義人たる弥生、博則に帰属するのである。
「永い間働いて貯えたお金で買った私の株はどうなったの。なんで私や博則の株が主人の株になるの。」という弥生の疑問に明確に答えることこそが、経済的、実質的に観察して所得の帰属を決めるという実質課税の適用であると言わなければならない。
二 原判決も認めている弥生の原資は、弥生口座と博則口座に入って株式の売買に充てられ、これが繰り返されて大きくなったものであるが、特に弥生や博則名義となって現在も残っている京福電鉄株は何れも弥生が自分の資金で昭和四六年頃から同六二年までに買った古い株式で、名義もそのまま弥生、博則となっている。
正に、弥生が苦労して貯めた自己資金で買った株式が現存しているのである。この株式は、第一審判決も弥生の口座であると認めた、眸口座などで買われたものである。購入された口座からも、また名義上からも、名義書換の時期からみても、この株式が弥生、博則に帰属することは明白である。この株式がどうして被告人の株式と言えるのか、どのような手続で、どのような法的根拠で被告人の株式となったのか、原判決は全く答えていないし、また、答えることが出来ないのである。
三 原判決は例外として、「家庭内において、複数の家族が株式取引の原資を提供する一方、その中の特定の者が株式取引に関する知識経験を生かして出資した者のために、株式取引の一切の手続を行い、売買の銘柄、時期、数量、価格等の決定を一任されている場合は、それらの株式取引が明確な計算のもとに分別管理されていれば、出資した家族各自の取引と認められ、売買の損益も各自に帰属すると認められることもあり得る。」としながら本件では三口座の計算関係を明確に出来ない状態になっているとして、本件について一任売買的な事情を認めていない。
弁護人が控訴審で提出した弁論要旨二項で述べた通り、被告人は各人別のノートを作成し、「メモ」にも各取引の帰属者を明記しているのであって、決して三口座での取引を明確に出来ないという状態ではなかったのである。
即ち、本件では、コスモ証券/上六支店における武夫口座、弥生口座、博則口座という三区分があり、右各口座は原則としてその口座名義人の取引であるとの分別が為されているのであるし、被告人は、武夫、弥生、博則の各別に株式取引ノートを作成して三人の各人取引を区分しているし、株券名義も三人それぞれに区分して管理しているのであって、十分な時間があれば、三人各別に株式取引を区分しうるのである。本件を調査した国税局は、そもそも三人別々の取引を一人の取引とみなして一括して書類(検二〇、二一他)を作成したことが、審理段階において区分を明確にしえない主要な原因になっているのである。
第一審判決三六頁、及び第二審判決四頁では、「弥生が株式に投入したとする資金の金額を具体的に確定するだけの証拠はない。」としているが、この論法でいけば、被告人自身の出資と額も証拠上、明確に出来ないこととなる。
家族内委託を受ける場合には、第三者の場合とは異なり、ゆるやかな計算関係の下で一任取引がなされているのが実情である。本件においても、弥生が株式取引につき時々意見を述べてそれ以外は一任的に株式取引の管理運用を被告人に委託していたのである。
しかし、原判決の指摘するように、仮に三口座の計算関係を明確にしていなかったとしても、各自が提供した株式買付原資がなぜ被告人のものになってしまうのか全く説明していない。計算関係が明確でないなら、むしろ株式の名義人、或は口座の名義人に帰属するとするのが当然である。
仮にそれができないのなら、税法では、実質課税主義が貫かれているのであるから、所得が明らかでない場合に推計課税を為しうるのと同様に、夫と妻の共同出損による株式取引があるときは、夫の出損額と妻の出損額を比較按分する方法により、夫婦間における株式保有割合、右による株式取引の所得割合を推計して、各人の帰属部分を認定することができるのである。従って、これをしないで、不明な場合はすべて夫の取引と見做すというような乱暴で合理性のない認定は、許されるべきではないのである。
結局、原判決は、計算関係が明確でないから全ての取引を夫である被告人のものとしたもので、公正な税負担を目的とする実質課税の原則に反していることは明白である。このように被告人を十分に納得させることの出来ない原判決は、公正な裁判を受けることを保障する憲法三七条にも違反する結果となっている。
第三 憲法違反があること(刑訴法第四〇五条第一号)。
一 財産権の侵害(憲法第二九条第一項)
裁判においては、何人の財産権も侵すような判断は、為されてはならない。
ところで、前述の如く、原判決は、弥生が原資を出して、株式取引を為していたことを認定しながら、最終的に、これをすべて夫たる被告人に帰属するものと認定し、株式取引の所得が被告人一人のみに帰属するものと判断している。
右原判決は、まず始めに、妻弥生が有する株式に対する財産権及び株式取引から生じた利益に対する財産権を侵害している。
弥生は、被告人から、自己の株式現物の返還及び自己株式の売買取引から生じた利益の返還を、無条件に受けうる立場にあるところ、本件では、弥生の右財産権が全くなくなることとなる。このことは、弥生に対する財産権の侵害である。
右のことは、反面、被告人の財産権を侵害することともなる。即ち、本来、被告人に帰属しない株式や株式取引による利益を被告人のものとして課税することとなって、被告人に不法な財産的負担をかける結果となる。これは、被告人の財産権を侵害するものと言わなければならない。
二 夫婦平等原則違反(憲法第二四条)
憲法上、夫婦は、婚姻において同等の権利を有し、且つ夫婦間ではあらゆる法的側面が、両者間の本質的平等の理念により、取扱われなければならない。
ところで、原判決は、前述の通り、妻の株式や株式取引利益がある場合に、それを具体的に確定しえない限り、すべて夫たる被告人の株式、株式取引利益であると見做している。
右は、結局のところ夫婦の財産権について、家庭内で主たる者は夫であり、妻は従たる者である。従って、夫婦間において、いずれに属するかが不明の財産はすべて夫に属する、と判断しているに等しいものである。
妻弥生は、その生涯期間中ずっと外に働きに出ていたのであって、そこで得た貴重な収入の一部を本件株式取引に投資したのである。そして、このことは、原判決も認めているところなのである。
そして、このような場合、夫が出損した株式原資(約五七〇万円)と、妻が出損した株式原資(約三〇〇万円、この内には博則への贈与分約一五〇万円が含まれる)を平等に取扱うべきことは、憲法第二四条の要請するところである。
しかるに、原判決は、本件において、株式取引の管理面のみを強調する余り、終局的に、夫婦平等の憲法的理念を無視する結果を招いているのである。
更に、原判決においては、夫婦間の一任勘定取引は妻の株式が具体的に特定ができない限り認められないとして、右同様に、結局のところ夫婦平等理念をそこなっているものである。
三 納税の公平取扱違反(憲法第三〇条)
国民は、法律に定めるところにより、納税の義務を負い、その課税は公平に行わなければならないところ、本件では、所得税法で定める実質所得者課税の原則(同法第一二条)の違反がある。
妻の株式が確定しえないときは夫の株式である、との前記の論理が実質所得者課税原則に違反していることは、第二に記載したとおりである。
第四 刑の量刑が甚だしく不当であり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められること(刑訴法第四一一条二号)。
被告人は、本件において、三口座を区分し、税務署や証券会社(第一審寺岡博証言二〇丁)にも問合わせて一年間に元に戻せば課税されることはないと聞いた上、株式取引に関して三人間の貸借を行ない、五〇回の取引回数制限については(仮に弥生、博則からの委託取引を自己の取引の中に含めて取引したとしても)、被告人一人だけの取引において一回当り取引量を増大させれば(総括注文伝票利用)、五〇回以内で取引できるところであるにかかわらず、本件においては三人の口座による分別管理ができているものと信じて、自己の株式取引及び弥生、博則から委託を受けた株式取引を行っていたものである。そして、被告人は、低学歴と工員としての生活環境から、株式取引にかかる税務について、税理士に予め問合わせるような知恵も持ちあわせていなかった。
このように被告人は、所得税をほ脱しようとする意思など毛頭なかったところである。
一般に、法律の無知は犯意を阻却せずと言われるが、これは所得税法の如き技術的、行政的立法においては、該当しないものであるし、実質課税原則の如き抽象的一般原則、原判決判示の如き所得の帰属に関する判断など、とうてい被告人の考え及ぶところでなかったのである。
従って、本件では、被告人に脱税の確定的犯意があったとは言えない。被告人は、ただひたすら、自己の信ずるところに従い、株式運営をしていたに過ぎず、その生活態度は、真面目且つ質素なものであった。そして、妻弥生の、人並みの「大きい家」に住みたい、との希望を達成させてやるために妻出損による株式及び資金を含めた一家の株式の運用に励んでいたに過ぎなかった。
被告人は、質素、倹約を旨とする真面目な工員で、家族共々、その生活態度は地味で堅実なものであり、何ら批判されるところがない。本件は、いわゆるバブル経済の最中に、国民の誰もが株式取引に手を出していた時に行われた家族ぐるみによる株式投資であり、そこでの利益は更に新たな株式投資に充当され、バブル経済の終了とともに、全てが損失に消えたものであって、被告人の株式取引による利益は結局、計算上の利益に過ぎなかったのである。
従って、本件は、売上除外や架空経費の計上によって得た資金を隠匿したり、或は、これを遊興費に使ったりするなどの悪質な脱税犯とは全く性格を異にするものである。被告人は、長期の勾留を受けた上、更に修正申告をさせられて、昭和六一年、同六二年分の所得税、重加算税、地方税等、合計約一〇億円を超える巨額の金額を納めたのである。被告人は、この納税金額を作るために株式は勿論、不動産等全ての財産を金融機関に担保として差し入れたものであるが、その後の金融情勢等の悪化により、担保価値が著しく下落し、実質上、全くの無一文となっており、現在、多額の罰金を支払うことは不可能な状態にある。
以上の諸事情を考えれば、仮に本件が犯罪に該当するものとしても、一家を破産状態にまで追い込むような刑罰を課すべきではない。殊に罰金刑一億四、〇〇〇万円はあまりにも不当であり、これを取消さなければ著しく正義に反するところである。